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ジオン・ズム・ダイクンの論文

 なぜ人類が、宇宙開発に手をつけたかといえば、それは、人が、生きてゆく必然の結果であるとしか言いようがない。
 人は、本来、自然と同居する動物であった。
科学技術の発達によって自然を変革し、支配した人類は、人類全体の歴史の中でもきわめて短い時間でしかない。
 それ故、自然と同居している間に培われた本能が、人に宇宙開発を行わせた。
 しかし、人特有の高いインテリジェンスは、人間から隔離する方法を身につけ、それが社会全体をも支配、構成していった。
 旧世紀末葉までは、地球上の後進国は、自然に左右される社会構造を持っていたが、それも解消されるにつれて、自然はレジャーの対象以外のなにものでもなくなった。
 これは、人類と自然を考える上で、異常なことといえる。
 その上、後進国がなくなった時から、旧二十世紀の都市が抱えたと同じレベルの汚染と窮乏と混乱を、地球全体が抱えるようになった。
 さらに、問題なのは、それらの文化を支える技術が高まれば高まるほど、人は、スペシャリスト化の道を歩み、一個の人は氾的に能力を開花させることがなくなったことである。
 その歪みを埋めるために、新種の宗教が増え、その啓蒙運動は盛んとなった。
 が、それらの人々も運動もまた狭隘なスペシャリスト化現象でしかなく、原始宗教が示したような自然全体の中の人というありようを示唆することはなかった。
 スペシャリスト化の弊害は、自然と調和して暮らすというのではなく、たった1つの個人の主義を押し通すための論拠を与えるだけであったりした。
 十九世紀までの文化は、たえず自然との格闘と疾病と王権に代表される専制主義との戦いであった。
 それは、人そのものにも自浄作用を強要した。
 それが、人を地球に対して横暴である形を回避させてきた。
 病から逃れられれば、それで、人生を良しとする謙虚さが人にはあった。
 戦禍という人災であってさえ、自然の暴力に似た対処の仕方をして、人は命を長らえさせるしかなかったのである。
 しかし、近代は、国家の戦争による犠牲でさえも、賠償を要求する大衆を抱えている。それは、一見、この権利を国家の同等のレベルにまで高めた。
 が、これもまた、このスペシャリスト化である。
 国家が、構成員として個を国家そのものと同じに置くことは断じてないはずなのに、個人は主権をうたい、国家をも潰そうと意思する。
 そして、そのような個の集団が国家を運営すれば、氾的恣意を象徴する国家運営などは、絶望的である。
 かつて、自然と対決していた人は、個の主権を全面に立て暮らしてはいなかった。
 自然から隔離された社会構造を手に入れ、その社会構造を左右する力を手に入れた時から、人は、己の自意識を振りかざすケースが多くなりすぎたのだ。
 そのことによって、人は、人に対して疲れ、人に対してその暮らしを保証することのみ興味と価値を見いだしすぎて、本来の自然との暮らしを忘れたのである。
 その人の意思の在り方が、地球の破壊に繋がる原因を作っていった。
 しかし、人は、まだ自然を忘れるところまで堕落してはいなかった。
 人を生み出した自然は、途方もなく巨大である。
 その巨大な存在に対さなければ、人は、存続し得ないのではないのかという人の本能が、人を宇宙に向かわせたのだ。
 別の言い方をすれば、人が、己の都合で作った社会構造から生まれる願望、自己保存の欲望などを忘れさせるための機能を、人の生理は持っているのである。
 それを忘れれば、人は、滅亡する。
 人が、直感的に持つその洞察は正しい。
 それ故に、これを本能と言うのである。
 その本能を実現させたのが、宇宙開発である。
 宇宙開発の意思が確認され、人が宇宙に移民できるようになったのは、人を苛酷な自然に置いておくという自然界の処遇の一端でしかない。
 この苛酷な自然に生きる必然を背負わされた人は、社会構造が生み出している些末な自己保全論に身を託している暇はない。
 たとえば、公園の池に柵がなかったために自分の子供が死んだ場合、その死因の責任の一端は公園の管理者である市町村にある、と主張するような暇がないのが宇宙なのである。
 それは、人にとって苛酷である。
 が、苛酷であるが故に、人の都合の論理を唱え、聞く暇はない。
 少なくとも、市町村を避難しようとする思考は、狭隘ではなかったか? と自省させることはできる。
 宇宙は苛酷であるが、人が暮らせるようになった。
 なぜか?
 もともと、宇宙は、人が暮らしてゆけるスペースであったからに他ならない。
 むろん、多少の技術的な手段を駆使しなければならない環境ではあったが、その技術を手に入れることができれば、暮らせる空間であったのだ。
 でなければ、宇宙は、もともと人が住めないような物質で埋めつくされていたのではないのだろうか?
 では、なぜ、宇宙は地球よりも苛酷な環境なのだろう?
 地球上での人のインテリジェンスが高まったとき、そのインテリジェンスは独善的であろう。
 独善的でなければ、狭隘であろう。
 その人のインテリジェンスを飲み込む空間として用意されていたのが、宇宙であると考えるのは容易である。
 コロニーの事故に対して、スペース公社の責任賠償は存在するものの、それが行使されるより先に、スペースノイド達は環境保全を第一に考え、それを正義とするようになったのは、いま始まったことではない。
 環境が苛酷であるばかりに、人は、一人の主権を認めるよりも先に、あらゆる経済的、物質的なものを環境保全に投入し、その余剰を持って個人の保証に振り向けるという構造をとった。
 生きる環境を保全することが第一であって、生き残った上で、個人の主権を考慮するという構造は、かつて地球上でも、科学文明が進歩していなかった時代の人の思考であった。
 それが、自分たちの目に見えない部分での環境汚染には興味を持たず、いつか、地球を疲弊させていった人に対して、自然が与えた新しい環境である。
 それをもってして、人は再び、動物に近い謙虚さを自然に対して持つことを要求されたのである。
 これが、宇宙開発の意味である。
 技術を駆使した上で、種として謙虚さを人という動物が持つ機会を与えたのが、宇宙である。
 しかし、現実は、まだその認識はなく、ただ、人類の技術力の勝利として受け取っている風潮が強い。
 これでは、なぜ、宇宙開発かというテーゼに、人は答えられない。
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