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『Sachiko&Yumi』
第3幕 第5場 小笠原家の庭園

祥子「もう行ってしまうの? 朝はまだ早いわ。
 怯えているあなたに聞こえたのはナイチンゲール。雲雀じゃないわよ。
 毎晩、あの向こうのザクロの木で鳴いているのよ。
 ねえ、あなた、本当よ、ナイチンゲールなのよ」
祐巳「いいえ、朝を先触れするのは雲雀でした。ナイチンゲールではありません。
 ほら、ご覧下さい。あの向こうの東の空、別れて行く雲の裂け目を縁取って、あの意地悪い朝の光を。
 夜の灯火は燃え落ちて、はや、楽しげな朝が、霧深い山の頂に爪先立ちして立っています。
 行って命を助かるか、ぐずぐずすれば死があるだけです」
祥子「朝の光ではないわ。本当よ。小寓寺までの道を照らしてくれる流星よ。だから、まだ往かないで」
祐巳「では、私はもう捕まって、殺されてもいい。あなたがそのお心なら、私はそれで満足です。
 私だって、往きたいよりは、どうかこのままでいたいことか。
 さあ、死よ、来るなら来なさい。喜んで迎えます。祥子さまがお望みなら。
 どうしたのですか、祥子さま。お話をしましょう、もっと。まだ、朝はこないから」
祥子「朝よ、もう朝よ。早く行って、早く。
 雲雀だわ、あの調子っ外れのあの歌声は。うるさいったら、耳障りな金切り声に鳴き立てて。
 雲雀の歌を、美しいという人もあるけれど、本当にあの声は憎たらしい、私たちを引き裂いてゆく歌なの。
 雲雀と、あの嫌なヒキガエルとが、目を取り替えっこしたということだけれど、それなら、いっそあの声も取り替えっこしてくれたらよかった!
 だって、あの声こそは私たちの逢瀬を引き裂き、あなたを旅に駆りたてる、憎たらしい後朝の歌なのですもの。
 さあ、いらして頂戴! 言うまにも明るさが増してくるわ」
祐巳「明るさとともに、ふたりの心は暗くなるわ……」
瞳子「お姉さま! 江利子さまがここへ!」
祥子「窓よ、朝を入れて、そして命を逃がして……」
祐巳「さようなら、さようなら! もう一度口づけを。それでは行きます」
祥子「このままいらっしゃるのねえ? いとしい人、ええ、大事な私のあなた!
 きっとお手紙を下さらなきゃ駄目よ、毎日、一時間毎に。だって、私には一分毎が、それこそもう何日という思い、でも、ああ、そんな風に数えていたのでは、今度お目にかかるまでに、私もすっかりお婆さんになっているかもしれない」
祐巳「さようなら! 機会さえあれば、きっと便りは忘れるものですか」
祥子「でも、ああ、私たち、もう一度会える時があるかしら」
祐巳「ありますとも、もちろん。そしてその時には、今のこの苦しみは、みんな楽しい語りぐさになります、きっと」
祥子「ああ、いや、いや、何だか虫でも知らせるような気がする!
 そこに、下で立っているあなたの姿が、なんだか、まるで墓の底に横たわる死人を見るような。
 私の目の悪いせいか、それともあなたの顔色の蒼いせいか」
祐巳「そういえば本当、祥子さま、あなたの顔もその通り、悲しみのため息が、私たちの血を吸い取っているのです。さようなら!」
祥子「運命の女神、どうかお願い、祐巳を長く引き止めず早く私に返して……」

江利子「どうしたの?」
祥子「気分が……」
江利子「いつまで令の死を嘆いているの? 涙であの子をお墓から洗い出すつもり? 度を越した嘆きは分別が足りないわ」
祥子「泣かせてください! この悲しい別れのために」
江利子「いくら泣いても、あの子は生き返らないわ」
祥子「別れが辛くて……泣かずにはいられません」
江利子「おまえが悲しいのは、あの子を殺した悪党が生きているからなのね」
祥子「悪党って?」
江利子「あの悪党、祐巳よ。あの人殺しが生きているから……」
祥子「私の手の届かないところで……この恨みは、私ひとりで晴らしたい」
江利子「安心して、恨みは私たちが晴らします。小寓寺へ人をやり、毒を飲ませて、すぐにでも令の後を追わせるわ。だから、もう泣かないで」
祥子「祐巳の顔を見るまでは……いえ、その死に顔を……私の心は晴れないわ。
 この哀れな胸は、あの人への悲しみでいっぱい……祐巳の名をきいても側に行くこともできない。直接むくいることもできないなんて」
江利子「そんなことより、嬉しい話があるのよ」 祥子「嬉しい、耳障りだわ、ほんとに惨めなこんな時に。ねえ、江利子さま、どんなお話なの?」 江利子「蓉子さまは、おまえを悲しみから遠ざけようと、喜びの日をお選びになったのよ。お前も私も予期していなかったのに」 祥子「喜びの日とは何です?」
江利子「この木曜日の朝早く、リリアン女学園のお聖堂で、若くご立派な柏木さまが、お前を花嫁になさるのよ」
祥子「お聖堂と聖ペテロ様の名にかけて、私は花嫁になどなりません!」
江利子「なら、蓉子さまに自分でおっしゃい」
蓉子「どうしたの、まだ泣いているの? どう? 私たちの取り決めを話してあげましたか?」
江利子「ええ、ありがたいけど、嫌ですって。お墓とでも結婚するが良いわ」
蓉子「何ですって? 嫌だと? ありがたいとは思わないの? 誇らしいとは? 幸せとは? 紅薔薇さまに、あのような立派な紳士を選んでやったのに!」
祥子「ありがたいけど、誇りとは思いません。嫌いなものは嫌いです!」
蓉子「どう思おうが、構わないわ! お前は木曜日に結婚するよ!」
祥子「聞いてください! お願い!」
蓉子「いい、木曜日にお聖堂へ行かないなら、二度と顔を見せないで。
 黙ってて。口答えは無用よ! 嫌なら物乞いになり、のたれ死ぬがいいわ!
 私は本気よ! 言葉に偽りはないわ!」
瞳子「ひどい、何というお言葉!」
蓉子「黙りなさい! 瞳子!」
祥子「やさしい江利子さま、私を見捨てないで。結婚を延期して、一ヶ月、いえ一週間……それが駄目なら、婚礼の寝床は令の納骨堂に」
江利子「お黙り、口も聞きたくない。お前など勝手にするがいい」
祥子「瞳子……どうすればいいの。私は妹のある身、そして誓いは天にある。その誓いは破れないわ。
 お願い、何か言って、慰めの言葉はないの?」
瞳子「では、お聞き下さい。こうなった上は、柏木さまと結婚なさるのが一番です。素敵な方ですもの。
 今度の結婚で、幸せになれますよ。最初の結婚より、ずっと。なぜなら、最初のお相手は死んだも同じ。人目を忍ぶような夫など、葬った方がましです」
祥子「心の底からの言葉?」
瞳子「魂の底からです。偽りなら呪われます」
祥子「そうね……嬉しい慰めの言葉だわ。江利子さまに伝えてちょうだい。蓉子さまへの態度を後悔し、シスターに許しを求めに行ったと」
瞳子「ええ、かしこまりました。それがよろしゅうございます」
祥子「もう、瞳子ちゃんも私の味方ではないのね……でも、全てが駄目でも、死ぬことだけはできるわ」

次回……第4幕 第1場 シスター佐藤の庵室

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